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曹操の手の内から劉備のもとへ・・・関羽は、なぜ方向オンチにされたのか?【関羽千里をゆく】の謎

ここからはじめる! 三国志入門 第115回

『三国志演義』で関羽が歩んだ千里行ルート。実際の三国時代にはなかった演義独自の滑州などの地名も見られる。「正史」では具体的な経路は不明。地図制作:ミヤイン/中国歴史地図集 第二冊より

「三国志」において、劉備配下の関羽が曹操に降り、一時的に客将となった時期があった。

 

 それは中華三分する前の西暦200年、曹操と袁紹(えんしょう)が華北の支配をめぐって争った「官渡の戦い」のころ。その前哨戦で、関羽は袁紹軍の顔良(がんりょう)を討ち、曹操に義理を果たして劉備のもとへ帰る。

 

「関羽はことごとくその賜りものに封印をし、手紙を捧げて訣別を告げ、袁紹軍にいる先主(劉備)のもとへ奔った」(正史『三国志』関羽伝)

 

 史書にはこのように記されており、側近が追跡しようとするのを曹操が「追ってはならぬ」と止めたのも史実のとおり「武帝紀」「関羽伝」で読める。関羽の義将たるゆえんだ。この記述をふくらませるかたちで『三国志演義』第27回に記されたのが美髯公(関羽)「千里走単騎」「五関斬六将」である。まずは以下、そのあらましをたどる。

 

■正史からふくらませた「五関突破」と「六将斬り」

 

 二夫人(甘夫人・糜夫人)を馬車に乗せた関羽は、下邳城時代からの従者たちをつれて許都(河南省許昌市)を出立する。行く手には「東嶺関(とうれいかん)」「洛陽関」「汜水関」「榮陽(けいよう)」「黄河の渡し場」という 5つの関門があり、計6名の守将が次々と待ち受ける。

 

 守将らは関羽に対し「通行証を持っているか」と迫るが、無論「そんなものはない」。問答のすえ、無謀にも関羽に挑むが、いずれも2~3合と持たず斬り捨てられる。それらをすべて打ち倒した関羽は、周倉(しゅうそう)を配下に加え、古城で再会する張飛の誤解を解き、劉備のもとへ夫人たちを送り届ける。感動の再会を果たすのである。

 

 許を出立後の 「五関斬六将」の部分は「演義」による創作で、孔秀・韓福・孟坦・卞喜(べんき)・王植・秦琪(しんき)たち将も一撃で関羽に倒される「引き立て役」としての存在だ。 関羽の手助けをする鎮国寺の住職・普浄や、胡華・胡班の親子も同様。この道中で関羽の側近となる周倉も創作上の人物である。

 

 ただ、全員が創作かというと、そればかりでもない。二夫人を助けた廖化(りょうか)、「黄河の渡し場」の近くで登場する東郡太守の劉延(りゅうえん)、蔡陽(さいよう)などは一応実在の武将だ。部下の秦琪を斬られて激昂し、追いかけてくる夏侯惇(かこうとん)と関羽の一騎討ち。曹操の命令書を携えた張遼(ちょうりょう)がそれを諫めに来るシーンは千里行の山場である。

 

 さて、本題に入ろう。この「千里行」を地図で見ると、関羽は非効率なルート をたどったのがわかる。まず疑問なのが許から北へ向かわず、西北に遠く離れた東嶺関を突破して洛陽関をめざすところだ。

 

 「東嶺関は実在しない関所だった」というのはさておいて、物語上、東嶺関も洛陽も、とくに重要な人物が出てくるわけでもない。そもそも許都から洛陽を「突破」するなら、西の長安へ抜けるのが自然だが、関羽はそこで東の汜水関へと進路を変えてしまう。

次のページ■なぜ、行く必要のない洛陽へ向かうのか?

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上永哲矢うえなが てつや

歴史著述家・紀行作家。神奈川県出身。日本の歴史および「三国志」をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、日本全国や中国各地や台湾の現地取材も精力的に行なう。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『戦国武将を癒やした温泉』(天夢人/山と渓谷社)、共著に『密教の聖地 高野山 その聖地に眠る偉人たち』(三栄)など。

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